無関心という防御
動機がしている。
3ヶ月後に22歳になろうという今、私は自分自身についてとんでもない事実を発見してしまった。
この気づきは、今後の人生に大きく影響するだろう。
私は性格が悪いのかもしれない。それも、そこそこに。
は?何を聞かされているんだ、と思っている方がほとんどだと思う。
しかしこれは私にとって紛れもない大発見、革命的な気づきだ。
なぜなら物心ついてからつい5分前まで、私は自分のことを
「めちゃくちゃ良い人」だと認識していたからである。
良いとか悪いとか抽象的な表現で人の性格を判断するべきではないかもしれないが、
少なくとも私は今まで多くの物事、特に他人の言動に対して良い悪いという判決を下しながら生きてきた。
もうこの時点で「良い人」ではなさそうなのだが。
私は正義感が強いので、それを良い人と錯覚していたのだと思う。
正義感が強いので、電車やバスでは必要な方に席を譲る。
正義感が強いので実家の家事をしっかりこなす。
正義感が強いので飲みサーには入らない。
正義感が強いので飲みサーの人が嫌いだ。
正義感が強いので個人の権利を阻害する古い考えを持つ人間が嫌いだ。
正義感が強いので女性軽視をするセクハラ男性が嫌いだ。
正義感が強いので男性に媚を売って権力を手に入れる女性が嫌いだ。
こんなふうに私は正義の名の下多くの敵を作ってきた。
しかし全て自分の正義に基づくものなので自分が「良い人」だと思ったまま。
そして敵にヘコヘコするなんて正義に反することはできないのでツンケンしてしまう。
相手がバイト先の社員とかだと本当にやりづらいので、私の正義に反することをしないで欲しい。こんな風にまで思っていた。
自分が自己満正義のヒーローであることに気づいたのは、
「もっと気楽に生きたら?1つのことを深く考えすぎ。」
という父の言葉だ。
これは事実で、自分が遭遇したり目撃したモヤモヤした出来事について深く考察することが習慣になっている。
考える間にだんだんしんどくなってきて、世の中に絶望したり自分が嫌いになったりする。
恥ずかしながら遅い反抗期中の私は、父の言葉に反感を覚えた。
深く考えるのは良いことじゃないか。いろんなことに敏感なのは私のチャームポイントだろ?
と思って、思いながら、確かにそれが原因で生きづらく感じることが多いことを認める自分もいて、1人で泣いた。
なぜ、私がこんなに悲しいのかというと、大人が、大人が私を傷つけるからだ!
とシクシク泣いているときに、ふと閃いた。
こんな風に身勝手に鳴いてる私、性格よくなくない?むしろ、悪い?
そう気がついたとき、驚いたけれどすっきりした。
今まで他人から見た私と自分から見た私の人物像のズレにも納得したからだ。
そして私は「良い人でいなきゃダメ」という自分自身に呪縛をかけていたことと、その呪縛から解放されたのを感じた。
「良い人でなくて良い」なら、私は自分の体力を全部使ってまで他人の言動に怒りを感じることもしなくて良い、ということ。
つまり、私は他人の言動に必要以上に傷つかなくて済む。
「無関心」という新たなカードを手に入れたのだ。
こんな風に自分を客観視して反省できる私はやはり良い人なのかもしれない。