ゆるゆると

ぽつりぽつりと続けます

誰のための自分磨き

あと4ヶ月ほどで22歳になる私ですが、最近とても生きやすくなりました。

 

・脱毛の施術中にスタッフのお姉さんとテンポよく話せる。

(以前は施術中のスッポンポンで恥ずかしいやら申し訳ないやらでそれどころじゃなかった)

 

・バイト先の社員さんと冗談を交えた私語を話せる。

(十分に仕事もできないアルバイトが社員を煩わせてはいけない、調子に乗って笑いをとる、可愛がってもらうなんて論外だと思ってた)

 

・とても可愛い、綺麗、な女性に出会っても落ち込まなくなった。

(自己肯定感の低さ故、その場から消えたくなっていた)

 

()の中から、面倒臭い人間が露見していますが、以上のように爽やかに、気負わない場面が増えました。

 

それはなぜか?

 

きっと以前より自分の容姿に自信が持て、同時に女性としての自尊心も満たされ、他人から自分の容姿についての評価について気にしなくなったのだと思います。

 

以前まではもっと野暮ったかったのですが、

最近大人っぽくなった、と言ってもらえることが多く、自分でも長年の理想の容姿のイメージにグッと近づいたと認識しております。(課題は山積みですが)

 

自分がなりたい容姿になれるのは嬉しいし、メイクやファッションを楽しめますし、大袈裟に言うと日々を生きるモチベーションが上がります。

 

芸能人のMattoさんなどを見ていても最近では整形へのイメージもポジティブに変換されていることを実感します。

 

みんなが容姿に自信を持って生きる世界は輝かしいし、私も賛成です。

 

しかし、ここである疑問が頭をよぎります。

 

オシャレをすること、整形をすること、脱毛をすること、その他外見を磨くことは外見至上主義に迎合することなのではないか?

 

ということです。

 

自分の外見を磨く努力は称賛されるものとして存在し、容姿を整えることを放棄している人はさけずまれます。

 

そのままの私は誰も受け入れてくれないのでしょうか。

 

Mattoさんや渡辺直美さんなどは個性的な容姿で活躍なさっていますが、多くの一般人にとって、「容姿に自信を持つこと=他人に認められること」なのではないでしょうか。

 

自分のためにしていると思っていたオシャレも自分磨きも、実は社会の美の基準に近づくためにしていることではないのか?

 

自信をというのは、一定の美の基準を満たした時に得られる、世の中を堂々と歩いて良いチケットなのではないでしょうか?

 

 

例えば私が脱毛に通うのは、小学生低学年から人よりうんと濃い体毛をコンプレックスに思っていたからです。

 

「毛、めっちゃ濃いな…」

 

好きな男の子に引き気味にそう指摘された時は、恥ずかしさと同時に長い刺が胸に刺さったような痛みが襲い、泣きも怒れもせず、瞬時に半袖から出た毛むくじゃらの手をひっこめることしかできませんでした。

 

そのトラウマもあり、小学生高学年の時には

 

大学生になったら脱毛してやる…!と決意していました。

 

回数を重ねるうちに薄くなる体毛を見る私の心情は、ツルツルで女性らしい肌に対する喜びより、他人に引かれない程度の薄い毛質を手に入れた安堵が上回ります。

 

30万以上の大金を注ぎ込んで、私は世間に評価される不安を消したのです。

 

このように、社会の基準に合わせながら、私はこれからも美容にお金を費やして生きていくのでしょうか。

 

生きやすく生きるための努力は実を結ぶのだから。

 

 

 

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